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※コマーシャル鉄工所は1916年11月にウィリアムT. ケーシー William T. Casey、オットー J. ホーク Otto J. Hoak、ロバート・ボーグス Robert Boogsにより、ロス・アイランド・ブリッジ Ross Island Bridgeのすぐ南にある121,405m²の敷地に設立。1946年に閉鎖。のちにZidell Marineに船の解体施設として売却



(Craig Shipbuilding [1907-1914], California Shipbuilding [1914-1918], Long Beach Shipbuilding [1918-1921], Craig Shipbuilding[1922-1939], Consolidated Steel [1939-1945] and Long Beach Marine Repair [1939-1970])
※1906年、ジョン F. クレイグは父親と共に長年造船業を営んでいたオハイオ州 State of Ohioのトレドからカリフォルニア州ロング・ビーチに移住。そこで彼は、現在のピア41 Pier 41があるチャネル3 Channel 3の南側に新しいクレイグ造船会社 Craig Shipbuilding Companyを設立。これにより、彼はロング・ビーチ港 Port of Long Beachの最初のテナントとなり、新しい港の浚渫業者にもなり、その地位を確固たるものにした。第一次大戦が迫ってくると、クレイグは自分の造船所をカリフォルニア造船会社 California Shipbuilding Companyに売却し、隣接するロング・ビーチ造船会社 Long Beach Shipbuilding Companyと名付けた貨物船建造のための事業を開始した。一方、クレイグ造船の潜水艦2隻と灯台補給船の入札を引き継ぎ、さらに6隻の潜水艦を自社名義で受注していたカリフォルニア造船が経営難に陥り始めたため、クレイグは元の造船所を買い戻し、クレイグ造船 Craig Shipbuildingの名のもとに両造船所を1つの会社として運営することにした。戦後もこの会社は、おもに船舶の修理工場として事業を継続したが、地元の顧客向けにヨットを数多く建造していた。そののち、1939年に合衆国海事委員会 U.S. Maritime Commissionが造船計画を開始すると、クレイグ社はロング・ビーチ造船所をコンソリデーテッド・スチール社に賃貸し、同社が商船の建造に使用していたが、元の造船所では修理や改造工事に専念。戦後、コンソリデーテッド・スチール社の造船所は閉鎖されたが、クレイグ社の造船所は1970年ごろまでロング・ビーチ・マリン・リペア Long Beach Marine Repairという名称で営業を続けていた。ロング・ビーチのクレイグ社が使用していた船体番号は、トレドなどで使用していたシリーズを引き継いだもので、1864年に建造されたジョン・クレイグの最初の船に遡る。そして、コンソリデーテッド・スチール社は、更に2つの大型造船所と少なくとも2つの小型造船所を設立したが、それらも同じシリーズを継続していた


※1896年6月にガス・エンジン&パワー社 Gas Engine & Power Co. がチャールズ L. シーベリー社 Charles L. Seabury Co. を買収し、コンソリデーテッド・シップビルディング社を設立した。ガスエンジン&パワー社は1885年に設立され、当初はブルック・アヴェニュー Brook Avenueと131丁目にあったが、1887年からはモリスハイツ Morris Heightsに移転した。ナフサ・エンジン naptha engineの発明者であるF. W. オーフェルト F. W. Ofeldtとクレメント・グールド Clement Gouldを創業者とし、ナフサ・エンジンによる進水式飛行機で一躍有名になった。1889年、ニュー・ヨーク州 State of New Yorkのナイアック Nyackにチャールズ L. シーベリー社が設立された。創業者はガス・エンジン&パワー社に勤務していたチャールズ L. シーベリーとウィリアム・パースロー William Parslowで、蒸気式ヨットで一躍有名になった。合併後、シーベリー社はモリス・ハイツに移転したが、両社は1913年ごろまで別会社として存続し、チャールズ L. シーベリー社&ガス・エンジン&パワー社 Charles L. Seabury Co. and Gas Engine & Power Co. という面倒な名称を使い始めた。1920年に古い社名を全て捨て、コンソリデーテッド・シップビルディングとなった。モリス・ハイツの造船所は、現在のロベルト・クレメンテ州立公園 Roberto Clemente State Parkの南端、マシューソン・ロード Matthewson Roadにあった。Googleで上空からその場所を見ることができる。右上に移動して造船所を拡大すると、橋のアーチの下に見える。第二次大戦後、コンソリデーションはロバート・ジェイコブ造船所 Robert Jacob shipyardとシティ・アイランド City Islandにある隣のB. F. ウッド造船所 B. F. Wood shipyardを買い取り、モリス・ハイツの造船所を閉鎖した。同社は1958年に現役のボートビルダーではなくなったが、後継の会社がヨットの修理センターとして存続している。リンク先の表で、3桁の船体番号を持つ最初のグループはシーベリーのもので、ナイアック造船所に戻ってからのものである。1913年から1922年までは、どの船がどの会社のどの造船所で建造されたのか、混乱が見られるので注意が必要である


※コンソリデーテッド・スチール社は、戦争に備えてカリフォルニア州のウィルミントン Wilmingtonとテキサス州 State of Texasのオレンジの2カ所に大規模な造船所を建設した。オレンジの造船所は、曳船や艀を建造する既存の小規模な造船所に隣接しており、同社はその操業を続けていた。この小さな造船所は、旧オレンジ・カー&スチール社 Orange Car & Steel Co. で、それ自体がサザン・ドライ・ドック&シップビルディング社 Southern Dry Dock & Shipbuilding Co. の後継者であった。戦後は加工業者となり、長年にわたりUSスチール U.S. Steelの一部門であった。そののち、シグナル・インターナショナル Signal Internationalの一部門として再び造船所となり、現在はWestport Orange Shipyard, LLCとなっている。Googleで上空から見るにはこちら。コンソリデーテッドはこの造船所とカリフォルニアの造船所の両方で単一の船体番号システムを使用していたが、順序にはまだ多くのギャップがある


※コンソリデーテッド・スチール社は、1929年にルウェリン鉄工所 Llewellyn Iron Works、ベーカー鉄工所 Baker Iron Works、ユニオン鉄工所 Union Iron Worksの3社が合併して設立された。ロング・ビーチのリース造船所(旧クレイグ造船)で造船事業を開始したが、造船拡張の第2波の1941年に、合衆国海事委員会から$13,000,000を投じてウィルミントンに4つ造船(進水)台の全く新しい造船所を建設した。造船拡張の第3の波でさらに4つ造船(進水)台が追加され、最盛期にはウィルミントン造船所の従業員は12,000名に上った。両造船所には、メイウッド Maywoodの本社工場からプレハブの鋼材 prefabricated steelやサブアッセンブリー sub-assembliesが供給されていた。戦後、この2つの造船所は清算された。 ロング・ビーチ造船所はインナー・ハーバー Inner Harborの3番港口 Channel Threeの西側にあったが、その全容は明らかでない。ウィルミントン造船所は、現在ロサンゼルス港のトラパック・コンテナ・ターミナル TraPac container terminalがある場所だった。Googleで上空から見た現地の様子はこちら。これら2つの大型船用造船所に加え、コンソリデーテッドは1943年にアッカーマン・ボート・ワークス Ackerman Boat Worksを買収した。この造船所はニューポート・ビーチ Newport Beachにあり、陸軍向けに96フィートの港内曳船(TP)と47フィートの内燃汽船型曳船(MTL)を建造していた。戦後は商業用船舶も建造していたが、1947年にコンソリデーテッドがアッカーマンに売却しなおした。Consolidatedはオレンジの造船所を含め、全ての造船所で単一の船体番号システムを使用していたが、そのシーケンス sequenceにはまだ多くのギャップがある。メイフィールド工場 Mayfield plantでも761隻の機械化揚陸艇[機動揚陸艇](LCM)を建造したことが知られているが、これらの船が船体番号の順序の隙間にどう対応するのかは不明である


Update 25/09/27